昭和42年07月02日 朝の御理解
沢山蚊がおります。もう煩わしゅうて、煩わしゅうて堪らない程に蚊がおる。そこでこれは素晴らしく良く効く蚊取線香だというので、その蚊取線香を頂いた。それがあのそのまま箱のままおいてあっても、決してそのどんなに素晴らしい蚊取線香であっても、蚊をとる事も蚊の煩わしさから逃れる事も出来ない。そりゃそうですね、今朝から私はそういうお知らせを頂いた。蚊が一杯おる。それで是はとても良く効く蚊取線香だからと、例えば人から送られる。
その蚊取線香を、蚊の一杯おる所へこうやっておいておるだけでは、蚊は逃げもしなければ、又は落ちも死にもしません如何に金光様の御信心が、有り難いというても、どんなに素晴らしい御理解だというても、御理解を只頂いてだけでは、丁度蚊取線香を貰うて、蚊のいっぱいおる所に、箱のままおいとる様な物。どうも私共はそう言う様な、おかげを受けられんという時には必ずそうです。
自分の流儀自分の考え、そればっかりを中心にして、そして蚊が煩わしいというては、蚊をひとつひとつ叩いたり、追い払ったりして居る様な事じゃなかろうか。成る程一生懸命やっちゃおる。蚊を叩きよる。蚊を殺しよる。それは成る程殺しも出来よう。払う事も出来ようけれども、又ぶんぶんいうて寄って来る様なもんです。もう自分の考えというものをね、信心さして頂いたら抜かにゃ駄目です。
我情をとらなければ、それがどんなに昔伝来からですよ、こうあるべきだこういうもんだと言う様な事を言われて来ておっても、成る程素晴らしい言葉であっても、素晴らしい事であっても、おかげ頂かなかったら何もならんでしょうが。道徳的な例えば言葉がいくらも御座います。それこそ修身科で教える様なそのいろんな事が御座いますけれども、それを守っておると言った様な事ではおかげにならんのです。
そりゃ辛抱強うにどんなるだけ。それでは結局その辛抱強さがどう言う事になるかというと、我になって行く。昨日もある方がお参りして参りましてから、もう八十からなるお爺さんで、非常に強い人で、お婆さんはとってもいい人らしいけれども、お爺さんという人はもう実に頑固だ。頑固も頑固ももう大変なそのまるきりその嫁さんでんなんでん、自分の嫁御やら息子の嫁御やら分からん。
息子はこうしといてくれという。けんこうすると爺さんなこうせにゃいかん。はぁありどんが言うこたぁ、ほんなこつじゃなか。私が言うこつの方がほんなこつ。と言う様にですね、もうそれは自分の言うことをまげなさらん。そりゃなるほど若い時から、ずいぶん働いて来てある人らしい。けれどもですねそう言う様に、その是が本当だと言う事を辛抱し抜いたからというてですね、そういう性根だけが強うなって、有り難うなれなかったら、信心はダメです。
信心はもう有り難うなっていく稽古なんだから。それにはね、有り難うなって行く稽古だからといって一生懸命参って拝んだだけじゃダメなんだ。日々おかげを頂いて行くと云う事がです、又様々な問題が問題を問題とせずに、問題を信心としてです、その問題を通して、教えに基づいた信心をさして頂く所から、いうならば、煩わしいその蚊の問題なら、蚊の問題にも取り組んでです。
蚊からも刺されんでおかげを頂いて行くと言う事。同時に有り難うなって行く所のおかげを受けなければいけません。皆さん様々な問題があった時やら、難儀があった時にですね、それを自分の知恵やら、力だけで解決しようとしたってですね、それはもうダメな話。よし出来た様であっても、性根は取れていない。それは自分で蚊を叩いて歩きよる様なもんだから。そりゃまぁそん時は差されんかも知れんけれども、又ブーンというてやってくる。私共は本当にあの教えをそれこそ素晴らしいその御教えをです。
私共が本気でそれを自分のものにする為の修行をさして頂いたら、おかげを頂ける。蚊取線香を只頂いとるだけでは、蚊は落ちません。只拝んだだけでもおかげ頂けません。参っただけじゃいかん。それじゃ一年一年有り難うなっていかん。教えが身に付いていかんから教えが身に付いていかなければならん。自分の理屈は捨てにゃいかん。自分の考えは捨てないかん自分の事がほんなこつの様な思い方は捨てにゃいかん。
そういう中ににはです、成る程難しいと思われる様な事もある。どげん思っても是が本当の事だと思うような事もあるけれども、神様はああいうて下さるから、親先生はああ教えて下さるからと、そこん所をです私は頂いて行く為に、素直さがいると思う。昨日一昨日でしたか、ここに参っておられる岡崎さん、先生私はもう愈々腹を決めました。どういう風に決めたの。
もうとにかく親先生の言いなさる通り、是からいっちょしようと思います。とこう言うのです。もう岡崎さんがここに御神縁を頂かれてから、五年位なるでしょうか、その間信心が有り難いもんだと分かって、分からなかった様な時代が続いた。しばらく疎遠の時代も続いた。最近又その信心が復活して来た。して今度は言わば本当の有り難さと言った様な物に段々触れて来られる。
そしてなら昨日一昨日のまぁ最近の考え方の中にはです、もうこりゃ自分の知恵やら考えじゃいけんと言う事が分かられた。五年間なら五年間の間にそして先生私はもう親先生の言いなさる通りに、是からして行こうと思います。と言う所迄おかげを受けられた訳なんです。岡崎さんがみえとるから聞いてみて下さい。どう言う所からそう言う風に、様な考えが五年振りに、言わば出来て来たのか六年振りに出来て来たのか。
だからここまではです、たいがいな人がおかげ頂くんですよ。是からなんです。そこでなら自分な赤と思うとるとに、親先生が白と仰る。そこん所がなら果たしてそこん所を行じていけるかどうか、と言う事なんです。昨日もある方がある矢張り、難儀な問題で熱心な方なんです。それでせめてその誰々さんに頼んで解決してもらや、私もそう考えたんです。本当にその人に頼みゃ訳無かろうたいと私は思うたんです。
解決するだろうと思うたんです。所が丁度大祓の日におこったじゃけん、ああた大祓を受けたと思うちから、そのままほうからけえとかんのち言うたら。私が顔ば見てから、こげんすりゃみすみすおかげになるこたぁ分かっとる、事を親先生がそう言わっしゃる。夕べでした勿論私の顔を見てから、所謂聞き間違いじゃなかろかというごたる顔ばしてから、そんなら誰も頼まんでいいですかち言う。ああおかげ頂くよ。
おかげ頂くよとは解決するという事じゃない。私は次に言うた。けどあんた大祓の日に起こったこつじゃけん、大祓を受けたと思いなさい。それが例えば何万損になってもです、何万のお取り払いを頂いたと思いなさい。何万のお取り払いを頂いたと。もうそれこそこげな有り難いこたないじゃないの。何万円儲かったと言うけれども、何万円お取り払い頂いた方がどの位有り難いやら分からんとばいと私はもうしました。
この辺になって来るとちょっと難しゅうなるでしょうが。皆さん。けれどもですそれがお取払いをして本当におかげを頂いて行く所にです、井戸は清水になる迄のおかげを受けられるんですよ。そげん所をですねもう初めからです、その方がですねこんな風な問題が起こりましたから、誰々さんにお願いします。どうぞお願いして下さいと言や私はそうお願い致しますかもしれません。けれどもそれはその問題は解決しましてもですね。それは今私が申します様に、蚊をパチッと叩く様なもんじゃ。
その蚊はその取れるかも知れません。けれどもそれでは、言わば根本的なおかげにならない、事を知らなければいけません。信心しておれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いと仰る。その目に見えぬ所の多いと、言う程の方のおかげを頂かせて頂く事を信じさせて貰える信心。岡崎さんが五年六年ここにお参りなられる様になってから、どうして下さいああして下さいという。
いわば願いからですどうさして頂きましょうかという信心になって来た。そりゃ右が良かばい岡崎さん、そりゃもう左にしなさいと言われりゃ言われる通りに是から動いて生きたいと思いますと言うなら、五年振りにようやく分かった。ここまで分かるだけでも大した事。けれどもそれを今度は本当に行じていこうと言う事はもっと難しい。言うならば、けどももっと言うならばです、こげん見易い事はなかち言う事ですよ。
自分の考えを抜いてしまってる。もう是をはなしたら是をはなしたらね、もう愈々自分な死んでしまうごと思う。もう是でお仕舞いになってしまうごと思う。極端な話が御座います。ある人間がある人が仙人の弟子になった。何時間自分を仙人の弟子にしてくれと言うても弟子にしようと言わない。一週間粘ったそんなにお前が熱心に言うなら仙人にしてやらん事もないが、私の言う事が聞けるかどげなこつでん聞きます。
よしそんならあの松ノ木に登れ。それがもう崖の下は何丈ともしれん谷間の崖にある松ノ木である。あれに登れ。さぁ登るまで登った。所が下から仙人が言う事がです。さぁ手を離せ、手まで離した。片一方の足も離せと片足と片手は離した。所がその一本にかけられておるその足も下ろしてしまえと、もう片腕でぶら下がっておるだけなんです。是を離したらもう生命が無い一生懸命なんだ。そしたら又次に仙人が言った。
さぁその手を離せと。この手を離しゃああたもう何丈ともしれん谷間に、まっ逆さまに落ちる事は分かっとる。こりゃ離されません。そんなら仙人の弟子にゃなられん。と言うたそうです。だからそれは大変難しい話だけれどもです、私がいわゆる神様まかせになると言った様な事はです、そげんむつかしかこたぁ言わんですもんね、それは恐らくその手を外したらです、もう落ちる時に次の枝に掴まえる事をもう自然に覚えるでしょう。それが体得と言うもんだ。
何時の間にか自分の足が枝に引っかかっとるでしょう。けれどもです、ただ片一方の手で握って是だけは一生懸命、是を外したら生命が無いと思うてです、一生懸命辛抱しておるから、もういよいよです、もう手が痺れてもう感覚は無かごとなって、是を離してしまう時にはです。もう次に掴まえる力もなくなって離したんでは、やっぱり谷間に落ちるんだと、離せと言う時に離しとかんと詰らん。
そこに素晴らしい、いわゆる我情我欲の無い、わが身は神徳の中に生かされてあると、言う素晴らしい世界が開けて来るんです。そして分からせて頂く事は成る程親先生まかせになっておると言う事は、こんなにも楽なものかと言う事なんです。神様任せになっておると言う事はこんなにも楽なものかと言う事。もうそりゃ本当に楽な事です。もうあありたい、こうありたいと言うものが無くなって来るんだもの。只そして一生懸命なのは、神様に向かったその心だけが一生懸命なんだ。
もうどげんなったっちゃよか、と言うてです神様へお縋りするとその一生懸命が無くなったら、そりゃもうお仕舞いです。けども神様へ向ける心だけは、一生懸命一心である、只その事とこの事は誰がどう言おうが笑おうがそしろうが、そんなこたぁ問題じゃ無いと言う境地なんです。岡崎さんあんたそげな事しよったらあんた損してしまうが、そりでん合楽の先生がこう言わしゃったから、あんた馬鹿じゃなかの、例えば言われる様な事があるかも知れんけれども。
岡崎さんが例えばそこんところが本当に親先生任せ、神様任せになられる事が出来る様になられた時に、もう岡崎さんは今の岡崎さんじゃ無いでしょうね。徳の世界に住む岡崎さんとしての、おかげが受けれられるとるでしょう。今朝から頂きました、例えばそのどんなに蚊が沢山おるから、ならこの蚊取線香が効くぞと言われてもです、それを箱のままそこに置いとったんでは、決して何の役にも立ちません。
どんなに素晴らしい金光様の御信心だ。素晴らしい教えだと云うてもです、それを頂いて帰っただけじゃ何にもなりません。それを本気で行じさせて頂くと言う事。そこで今日は私は教典を開かして頂いて、ここん所を頂いたから、ここんと事路をひとつ本気で行じられるといいですね。御理解三十六節の一番しまえの所にです。神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられる。という一節がある。
こりゃまだ沢山あります。三十六節はその一番最後の所をですね、神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられる。それに続いて第三十一節は小さい御教え、それを頂いた。生きておる間は修行中じゃ。丁度学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読む様な物であろうぞい。という御教え。だから一生と言う事は大変難しい。ですから例えば今日一日、一心に自分の周辺のその事をです。
修行として受けて行くと言う事。蚊取線香にならせて頂くと言う事。蚊取線香と言う事は言わば左巻き、あれはちったばかじゃなかろうかと思われる、その蚊取線香にならしてもらうということにも、信心に一心に向かう熱がつかなかったら、煙は出らん。一心を出せばすぐにおかげが、受けられると仰る一心とは、その熱の事なんだ。蚊取線香になっただけじゃつまらん。
馬鹿になって神様一心に向かわなければ詰らん。もう私が馬鹿になっときゃよかけんと、言うだけじゃ詰らん。私が蚊取線香になっときゃよかけんだけじゃ詰らん。蚊取線香になると同時に、それに一心という火が付けられて初めて、その自分の周囲の煩わしさというものから、離脱することが出来る。そこに神様の世界を表して行く事が出来る。自分も体験して行く事が出来るのです。
どうぞ。